どうも、りかちゅうです!信長が本能寺の変で亡くなってから誰が後継者になったかはご存知ですか?清洲会議を知っている人なら分かると思いますが三法師です。とは言っても、それ以降三法師は後継者と言いながら名ばかりです。なぜなら、信長が亡くなってから秀吉が仕切っていたからです。となると、その三法師はその後どうなったか?元服してから織田秀信と名乗り活動していました。では、どう生きていたのか?この記事にて話しますね!

織田秀信のプロフィール

三法師は元服してから織田秀信として活動することになりました。そんな秀信のプロフィールから見ていきましょう!

 

名前 織田秀信

三法師からの織田秀信です。

生年月日 1580年

没年 1605年7月13日

備考

清洲会議でハイライトとなった三法師です。信長の後継者になれたもののトップになったわけでもないです。むしろ、秀吉の配下でした。ある意味お飾りだったのかもしれませんね…。

織田秀信の人生

 

1.生い立ち

秀信は1580年に生まれました。幼名はもちろん三法師です。秀信は織田信忠の嫡男です。信忠は信長の嫡男であるため秀信は信長の嫡孫になります。生まれながらに立場があることになりますね。ですが、1582年6月に起きた本能寺の変で信長と信忠は亡くなりました。その当時の秀信はまだ3歳です。お父さんもおじいちゃんも亡くすなんて初っ端から悲劇ですね。一方で十兵衛は山崎の戦いで秀吉に敗れてしまいました。その影響で秀信に被害は及びませんでした。ただ、違う意味で波瀾万丈になります。

2.清洲会議で織田家の後継者に選ばれる

信長も信忠も亡くなったことから織田家の後継者を決めるために信長の息子達と重臣達が清洲城に集まり今後の話し合いをしました。あの清洲会議です。その際に信長の次男こと織田信雄と三男こと織田信孝が自分こそ後継者だと主張し激化していたそうです。そんな時に秀吉が誰も想定していなかった幼児の三法師こと秀信を担ぎ出し秀信が後継者だと主張しました。秀吉は十兵衛をを討っているだけあって権威は強いです。その影響で信長の後継者は秀信となりました。

ただ、まだ秀信は3歳なため政務代行役と守役は信長の側近だった堀秀政が務めると決まりました。これ以降の堀秀政は秀吉に仕えていることにしました。そのため、秀吉は堀秀政を通して三法師を監視し懐柔するつもりだったとも言われています。

3.美濃13万石を得る

その後秀信は1588年に9歳で元服して織田秀信を名乗りました。また、元服と同時に従四位下・侍従という位につきました。1593年には秀吉から美濃国13万石と岐阜城を与えられました。岐阜城主としての秀信は信長のやり方を手本にしました。具体例としては経済振興策である楽市楽座を行ったそうです。また、寺院や鵜飼を保護しています。それもあって秀信領内では一揆や騒動が起きていなかったそうです。また、秀信が岐阜領主になると決まった途端、道三の家こと斎藤家や土岐家の旧臣や縁者、名のある剣豪などがわらわらと集まってきたそうです。

4.キリシタン大名になる

秀信はキリスト教に関心があり1595年に入信しました。この時期に来日していたキリスト教宣教師は秀信が岐阜城下に教会を建設し家臣や領民も数多く入信していると報告したそうです。また、宣教師たちの記録では秀信は「三郎殿」と呼ばれ熱心な信仰生活を送っていたそうです。

 

5.関ヶ原で敗北

1600年に21歳になった秀信は関ヶ原の戦いにて三成に誘われて西軍につきました。二人は仲良かったそうです。関ヶ原の戦いでは美濃国に侵攻してきた東軍を食い止めようとしましたが敗退します。その後秀信は岐阜城に籠城し東軍の福島正則や池田輝政達を相手に20日間ほど持ちこたえるなど激闘を繰り広げました。ですが、耐えられず降伏しました。

その結果、秀信の家臣38名が切腹しました。その血を吸った岐阜城の床板を織田家ゆかりの寺院こと崇福寺が供養のために譲り受けています。この床板は崇福寺本堂の天井板に使われて現在は「血天井」として伝わってるそうです。

6.高野山と最期

一方で秀信は、出家して真言宗の総本山・高野山で修行することになります。ですが、信長がかつて高野山を攻めたためすぐには入山を許されず2ヵ月余り待たされました。また、秀信は入山後も信長への遺恨がもとで迫害されてしまいました。そのため、秀信は入山から5年後の1605年に下山して高野山の麓で暮らし始めたそうです。それから20日間ほどで死去しています。死因は病または自死だったとも言われています。わずか26年の短い人生でした。

 

豊臣政権での活動内容

秀信は秀吉の配下になったもののちゃんと活動していました。ですので、何をしていたかについて話しますね!

 

1.11歳で小田原攻め

秀信は1590年にわずか11歳で小田原征伐に参加したということになっています。11歳でと思いますが本当です。そして、小田原征伐が終わってから岐阜13万石の大名になっています。ちなみに、岐阜13万石が秀信の物になったのは前領主が秀吉の義理の息子だったものの、亡くなってしまったかららしいです。

2.朝鮮出兵と昇進

また、1592年の朝鮮出兵こと文禄の役にも参加しています。現地では、病死や兵糧不足、慣れない土地での過労や寒さで多くの人が亡くなったとのの、秀信は無事帰ってくることができました。帰国後は従三位・中納言に昇進しました。さらに、正室も迎えたそうです。その後も朝鮮からの使者に立ち会ったり秀次のお供をしたりなど信長の孫ということを笠に着ることなく地道かつ誠実に務めていたそうです。

関ヶ原の時の秀信

関ヶ原の時の秀信も意外な一面はありました。ですので、その話をしますね!

1.予見していた秀信

秀吉の死後、秀信は関ヶ原の戦いを予見していたという説がありました。それもあってか1599年から岐阜城で戦支度をしていたらしき動きが記録されているそうです。ただ、当初は会津征伐に参加するつもりだったよのの、支度が間に合わず遅刻してしまいました。

その間に三成から打診があり美濃・尾張をもらうことを条件に西軍につきましたこれにより、東軍の池田輝政・福島正則らと戦うことになりました。その当日、20歳になった秀信は自ら出陣して迎え撃ちました。ものの、野戦であえなく敗北したそうです。

2.敵側に評価されてた秀信

秀信は異母弟の秀則と共に切腹するつもりだったそうです。ですが、まさかの池田輝政が説得して切腹はやめたそうです。

また、戦いぶりについては正則が「さすがは信長様の孫」と秀信を賞賛されていたそうです。それくらい負けたとしても采配が凄かったのでしょう。さらに、正則は自分の功績をチャラにしてもいいから秀信を助けてやって欲しい家康に頼んだそうです。家康もそれを受け入れて秀信は死なずに済んだそうです。

 

まとめ

清洲会議で三法師が選ばれたのは知ってましたよ?まあ、あれも秀吉が上に立ちたい故に推したようなものですが。たとえ血筋的には正しかったとしても。これ見ても後継者が子供の方が大人の都合で動けるはどの時代にも通用する話だと思っちゃいました。それもあって、彼はその後どうしてるのか知らなかったので調べてみたら織田秀信として活動してるとは思ってもなかったです。しかも思ったよりも活動してたとは。そう考えると、秀信は政権交代の影響で影が薄くなった存在なのかなと思いました。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

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