どうも、りかちゅうです!秀吉が信長から任された中国攻めはかなりのピンチでした。毛利家の規模は大きいのにそれに畳み掛ける感じで。要因は裏切り祭りです。その中でも応戦してくれる予定の荒木村重がその時に突然裏切りはなかなかインパクトがあり渋といものでした。そこまでしでかすなんて何者なのか?この記事にて村重とはどんな人物なのかについて話しますね!

荒木村重のプロフィール

村重は信長を裏切ったことで波瀾万丈な生き方になりました。ただ、彼の生命力はすごいです。どういうことかは後ほどわかります。とにかく、村重は逸材なのでまずは彼のプロフィールから見ますね!

名前 荒木村重

生年月日 1535年

没年 1586年6月20日

備考

 

荒木村重の人生

以上が村重のプロフィールです。彼の人生は見がいがあります。自分の主君を追い詰めて出世しましたから。また、信長を裏切ったことで負けたのに村重は亡命した形で生きてました。一筋縄ではいかないですね。ですので、彼の人生について話しますね!

1.生い立ち

荒木村重は1535年に摂津国の豪族こと池田勝正に仕える荒木義村の嫡男として生まれました。村重は子宝に恵まれなかった両親が中山寺にある御本尊「十一面観音菩薩像」に12本の灯火を立てて祈祷しようやく生まれたらしいです。ちなみに、祈祷後村重のお母さんは灯火から飛び出した火の玉がお腹に宿るという奇妙な夢を見たと言われています。村重は幼少期から腕力が人一倍強く、大食漢でもありました。

2.池田勝正の信頼を得る

村重が池田家中で頭角を現したのは、池田勝正と池田知正による内紛がきっかけでした。実は池田勝正は先代の子ではなかったんです。ですが、文武に優れていたため池田家の跡継ぎに指名されたのです。当たり前ですが嫡男だった池田知正はこれを妬み、二人は対立関係にありました。そこで、村重は池田知正の有力家臣こと池田勘右衛門を酒宴に誘い自らの手で粛清しました。これによって村重は池田勝正の反対派を押さえ込むことに成功し、勝正からの絶大な信頼を獲得しました。

3.池田知正を追放?!

1568年に猪名寺の戦いでは近隣勢力の茨木重朝・伊丹親興連合軍を討ち破ると発言力を獲得しました。そして、村重は池田勝正が信長に仕えたことを機に国盗りの計画を進めることにしたのです。その際に村重が目を付けたのはかつて敵対した池田知正です。村重は次期当主の座をちらつかせつつ、三好三人衆から来た謀反の誘いを利用しました。そして、池田知正と共に池田勝正を追放します。これで村重は池田家の実権を掌握することになったのです。

4.池田家の排除からの信長に仕える

1571年の白井河原の戦いでは摂津国のライバルこと和田惟政を討ちました。さらに、勢力を拡大した村重は三好家から織田家に移ることを画策します。一方で信長は足利義昭と敵対していたため味方になる勢力を欲している状況でした。そこで、村重はまず足利義昭を支持する池田知正を追放し家中から完全に池田一族を排除しました。その上で村重は信長に会いました。

ただ、信長にしてみれば村重の印象は良いわけないです。なぜなら、村重は織田家に仕えた池田勝正を追放して池田家を乗っ取った人物だからです。そこで、信長は、面会の際に無言で刀を抜きました。そして、剣先でまんじゅうを刺して鼻先に突き付けるという形で村重を挑発しました。その言動に村重は平然と大口を開けてそのまんじゅうを食べ始めました。この姿を見た信長は村重を気に入り織田家への臣従と摂津国の支配も認めました。

5.信長に仕えていた時の功績

信長に仕えることになった村重は畿内での重要な合戦に次々と参陣し戦功を挙げました。まず足利義昭を破り室町幕府を滅亡へ導いた槇島城の戦い、摂津国の抵抗勢力の伊丹忠親を滅ぼした伊丹城の戦い、越前海岸一向一揆」の鎮圧など、休む間もなく戦っていたそうです。その中でも石山本願寺と争った石山合戦では主力部隊として活躍しました。このように、村重は、畿内のあらゆる戦線に顔を出す遊軍的立場でありました。

6.突然信長を裏切る村重

村重は伊丹城を改修した有岡城へと本拠を移し摂津国37万石を任されるまでになりました。ですが、信長から中国攻めをしてる秀吉の援軍を命じられた1578年に突然突如有岡城に立てこもり反旗を翻します。その理由は諸説あるものの確実なものは分かっていません。

これを知った信長は初めは起こりませんでした。むしろ、「母を人質に差し出し安土城へ弁明に来れば許す」という条件を出したのです。これを受けた村重は一旦安土城へ向かいました。ですが、その道中に側近「中川清秀と高山右近に毛利家と結び籠城するのが得策と言われ止められました。村重は迷ったあげく有岡城での籠城を決意しました。それでも信長は何度も使者を有岡城へ派遣し説得させました。ですが、村重は全部信長が激怒し有岡城の戦いが起こりました。

7.孤立する村重

信長は村重を孤立させるために大坂湾の制海権を奪取し内通工作を開始します。標的は籠城を勧めた高山右近と中川清秀です。まず熱心なキリスト教信者である高山右近のもとに宣教師を派遣しました。この宣教師は「説得が失敗したら破門にする」と信長から脅されていました。村重に妹や子を預けていた高山右近は色々考えた結果村重から離反しました。中川清秀に対しては金と加増を約束し成功させています。

さらに、信長への恭順に傾いた村重をあえて説得して籠城へ導いています。このように、村重は孤立に近い状態に陥りました。

8.過激な形で攻撃する信長

絶望的な状況の村重でしたが摂津国の領主たる気概を見せます。まず嫡男の荒木村次の正室はその実家である明智家へ送り返し高山右近の妹や子も危害を加えず解放しました。ただ、村重には人質を取引材料にする道もあったのに荒木村重武家の意地を貫くことだけが信長と戦う理由と化していたのです。

一方で信長の鎮圧軍は容赦ない手法で村重に迫ります。なんと村重に味方する摂津国の農民はすべてなで切りにし村々に放火しながら有岡城へ詰め寄ったのです。開戦から約2ヵ月後には総勢約3万人の兵で有岡城へ総攻撃しました。なんとか耐えた村重に対し力攻めは難しいことを悟った信長は兵糧攻めに変更しました。

9.有明城を脱出

村重は毛利家からの援軍だけが頼りでした。ですが、村重のもとへ助けが来ることはありませんでした。士気も兵糧も限界に達した村重は、ある夜、数名の御供を連れて有岡城を脱出し荒木村次が守る尼崎城へ向かいました。そこは海路に面し、毛利家からの援軍を受けやすい城でした。

10.残酷な結末

有岡城が陥落すると信長は村重に使いを出し「尼崎城と支城の花隈城を開城して降伏すれば有岡城に残っていた妻子や一族郎党を助命する」という交渉をします。村重は武士の意地を張るためにこれも拒否しました。

この対応に激怒した信長は残酷な信長は残酷な仕打ちをします。なんと、村重が籠もる尼崎城の近くで重臣の家族ら計122名を処刑、家臣やその家族512名を4軒の農家に閉じ込めて焼き殺しました。さらに、村重の妻子、及び重臣36名は市中引き回しの上京都の六条河原で斬首させました。信長がここまでするって相当のお怒りってことですね。

11.亡命と最期

実は村重は死んでません。1580年最後の抵抗拠点だった尼崎城と花隈城が落ちると村重は毛利家を頼って海路で亡命しました。それ以降、村重は他人から非難を受けながらも隠遁生活に入りました(茶人をやっていたそうです)。また、村重は自分の非道を誰よりも自覚していたため自ら荒木道糞と名乗りました。

それから、秀吉が天下を取ってから村重は茶人として秀吉に会います。謀反の経緯などを知っていた秀吉は「荒木道薫」と名を改めさせ、村重を自身の相談役として指名したそうです。その後、秀吉のもとを去った村重は堺へ流れ着き1586年6月20日に亡くなったそうです。享年52歳です。

荒木村重の逸話

以上が村重の人生です。有明城の戦いで自決ではなく亡命なのは意外でした。ただ、彼は悪あがきと亡命したことである2つの逸話が生まれました。ですので、彼の逸話について話しますね!

1.大食い村重

番外編です。村重は12歳のときお父さんから食べ過ぎであることを注意されたそうです。ですが、村重はしょげることなく「武将たるもの筋力がなくては話になりません」と反論し近くにあった碁盤の上に父を乗せて悠々と歩き回ったそうです。あまりの腕力にお父さんは「さすが観音様のご加護を受けた子だ」と感嘆したと伝えられています。

2.茶道が好きな村重

村重は若い時から茶道が好きでした。1576年に堺を代表する商人かつ茶人の今井宗久を村重が茶会に招いていた記録が残っていたそうです。また、たびたび茶会を催していたそうです。ちなみに、村重は有岡城から逃亡する時も背中に名物「兵庫の壺」を背負っていたそうです。

また、隠遁した村重は茶道に救いを求めました。ただ、その時にあるトラブルが起きました。村重は秀吉の相談役となってからも茶道に励んでいました。ある日の茶会で秀吉がかつて村重を裏切った高山右近についてその才能と善良さを称賛しました。それを聞いた村重はとっさに「高山右近の善良さはうわべだけのもの」と非難し、秀吉の怒りを買ってしまいました。その後、村重は出家して寺に身を隠したそうです。それから、晩年の村重は千利休とも親交を持ちその高弟である「利休七哲」の1人に名を連ねました。

3.末っ子だけ生きてた

有岡城の戦いで荒木家の一族は処刑されました。ですが、当時2歳だった村重の末っ子だけは乳母の機転により石山本願寺に保護されました。その後、その子は「浮世絵の祖」とも称され岩佐又兵衛として生きました。彼の作品は人物画から風俗画まで多岐に及び画風は独特です。特に代表作の「山中常盤物語絵巻」は笑みを浮かべながら人を刺す殺人鬼などが描かれるという狂気に満ちた作品です。ちなみに、村重は晩年に一度だけ岩佐又兵衛と対面しました。このとき2人は終始ほぼ無言だったそうです。

まとめ

信長との件では意地を張らなきゃ良かったのにと思いました。村重はあの意地を張ったことで残虐人というレッテルを張られましたからね?現に亡命してからも周りからそのように言われていましたし。それでも、意地を張っていたのは裏切ってまた戻るということは村重的にはそらは武士に非と思ったからこその選択だったのかと思われます。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう

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