どうも、りかちゅうです!秀吉は中国攻めで色々時間がかかったのはご存知かと思われます。それもあって、後から十兵衛がやって来る予定だったんですけどね。それで、その秀吉中国攻めなんですが初っ端から色々ありました。それが三木合戦です。別所長治が信長を裏切ったことで秀吉は中国攻めをしながら別所長治と戦っていました。この戦いは思ったより長いです。どういう戦いだったのか?この記事にてその話をしますね!
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中国攻めまでの経緯
三木城の戦い話の前に中国攻めまでの経緯を話す必要があります。ですので、まずは中国攻めについて話しますね!
1.毛利家と信長の対立
信長と中国地方を治める毛利家の関係は毛利元就の時代は友好的なものでした。ですが、1571年6月に元就は死亡し跡を継いだ毛利輝元の時から悪化していきました。初めは当初は友好的で両者は軍事同盟を結んでいました。
ですが、ある時足利義昭が毛利家を頼って亡命してきました。輝元は1回目は義昭と信長の仲を取り持つことで信長と敵対することを避けました。ですが、その後備前国や播磨国を巡って信長と少しずつ争うようになります。そして、再び義昭が毛利家を頼ってきました。その時、輝元は信長と敵対することを決め義昭を庇護します。
2.秀吉が中国攻めへ
義昭は1576年2月に備後国の鞆に拠点を置き、反信長体制を構築していくことになります。そして、1576年4月に石山本願寺が信長との和議を破棄し再度挙兵します。毛利家はこのとき石山本願寺を支援します。そのため、信長との対立は激化していくことになります。そして、1577年に毛利家は播磨国への侵攻を本格的にスタートしました。これに対し、信長は秀吉に毛利家の本拠地である中国攻めを命じました。これが中国攻めです。
三木合戦の経緯
この経緯から秀吉は中国攻めを開始しました。その時にある人が裏切ったことで三木合戦が裏切りました。ですので、その経緯を話しますね!
1577年10月に秀吉は播磨国を平定するために播磨入りをし官兵衛の姫路山城を本拠地に戦いを繰り返しました。その際にある家がキーポイントでした。それが播磨守護の赤松家の流れをくむ別所家の当主ことで別所長治です。別所長治は1570年に家督を継いだ後1573年に信長に謁見してからは信長に従っていました。その別所長治が1577年2月に信長を裏切り毛利家についてしまうのです。裏切りの理由は後ほど話します。この影響で他の勢力も別所長治に同調しました。
もちろん、信長は秀吉に別所家討伐を命令します。一方の別所長治は本拠地である三木城に籠城し毛利氏の援軍を待つことにします。こうして三木合戦がが始まることになりました。
三木合戦の流れ
三木合戦は思ったよりも長いです。別所長治が粘ったり三木合戦中にまた違う人が信長を裏切ったりしたことが長期化した要因です。では、一体どんな戦いだったのか?
1.籠城戦を選ぶ別所長治
別所長治は籠城戦をすることにしました。そしたら三木城には戦に備えて東播磨の兵士やその家族、浄土真宗の門徒など領民が集まりました。総数は7500人ほどです。これは逆にマイナスです。なぜなら、長く籠城するためには多くの兵糧が必要だからです。そこで、別所長治は毛利家に協力を求めました。その時に別所長治に協力したのは英賀城当主こと三木通秋です。この助けがあれば籠城は続けられるくらいの支援があったそうです。
2.三木城の特徴と毛利家の動き
三木城は台地に築かれた城で北・東・西の三方を崖に囲まれていました。また、南には守りを固めるために鷹尾山城と宮ノ上要害があります。そのため攻めにくい城です。そこで、秀吉は三木城を攻めるため、支城から攻略を開始し、秀吉は1577年3月29日には三木城を包囲し支城の1つである野口城を落としました。
一方で毛利家は小早川隆景、吉川元春らが上月城奪還を目指し3万の兵を率いて出陣しました。これを知った秀吉は上月城に援軍に向かおうとします。信長も織田信忠を総大将とした援軍を出します。ですが、援軍は三木城の西にある神吉城、志方城、高砂城といった支城を包囲しました。秀吉は信長に上月城を助けるよう進言しますが、信長は三木城攻略の優先するようにしろと言いました。それ故に、秀吉は上月城を見捨てざるを得ませんでした。
3.半兵衛が兵糧攻めを提案
秀吉は再度三木城の攻略に戻りました。その際に半兵衛が兵糧攻めを提案しました。兵糧攻めとは攻めにくい三木城を落とすために周りの支城から落とすやり方です。そうすることで本命の三木城を孤立できるという作戦ですね。ちなみに、三木合戦が半兵衛にとって最期の戦でした。彼は三木合戦の時に病没します。さらに、秀吉は三木城の北東にある平井山に本陣を置き、三木城を包囲するための付城を築き補給路を断つという作戦を立てました。付城とは戦いの際に敵の周辺に臨時に築く前線基地です。
こうして順調に攻略が進められるはずでした。ですが、織田家のある人が信長を裏切ったことで秀吉はピンチを迎えてしまいます。
4.荒木村重の裏切り
1577年に10月にある大事件が発生します。それは秀吉の後方支援をしていた荒木村重が信長に謀反を起こし毛利家に寝返って有岡城に立てこもってしまいました。信長も秀吉も荒木村重と戦うのは厳しいのでなんとか説得しようと考えたものの失敗しました。ちなみに、最終的に荒木村重も滅ぼされました。
5.別所長治のピンチ
別に別所長治は安泰ではないです。三木城の兵糧は十分ではありません。そこで、1579年2月に別所家は秀吉の本陣のある平井山へ約2500の兵を率いて出陣するものの、あえなく敗退しました。一方で、信長は再度信忠を播磨に派遣します。信忠は付城を6ヶ所増築して三木城の包囲を強固にしました。5月には秀吉別所長治の兵糧運搬ルートの要だった明要寺を陥落さてから淡河城を攻めました。これで三木城はさらに苦境に立たされます。
6.別所長治の孤立
1579年9月10日に毛利軍・別所軍により最後の兵糧運び込み作戦が実施されたものの、結局毛利・別所軍が敗れ兵糧を運び込むことはかないませんでした。それに畳み掛けるように10月には毛利方だった宇喜多直家が離反して織田家につきました。その影響で毛利家の本拠地と播磨の間が分断されてしまいます。さらに、秀吉軍が付城をどんどん構築したことで三木城への大掛かりな兵糧の搬入はありませんでした。この段階で秀吉は一度別所家に対して降伏勧告を行っていますが別所家は拒否しています。
7.別所家食糧不足
このように、兵糧不足に悩まされた三木城は当たり前ですが食料は底をつきたした。なんと草木まで食べつくされ人々は飢えに苦しんでいました。そんな中、1580年1月6日に秀吉は調略により宮ノ上要害の乗っ取りに成功しました。さらに、1月11日には別所長治の弟こと別所友之や叔父の別所吉親が守っていた新城を奪取しました。
8.別所長治の切腹
そして、1月15日秀吉は別所家に「悪あがきをせず切腹してはいかがか」と降伏を進める書面を送ります。これに対し、別所長治は降伏勧告を受諾しました。その際に城兵を助ける代わりに城主一族が切腹することが条件でした。そのため、1月17日に長治は自害しました。享年23歳でした。これで三木城は開城し、2年以上にわたる三木合戦は終わりました。
別所長治が信長を裏切った理由
以上が三木合戦です。別所長治は信長を裏切らなきゃこんな末路にならなかったでしょうね。にしても、なんで別所長治は信長を裏切ったのか?
1.別所賀相の主張が強くなったから
「信長公記」曰く別所長治は西播磨では名門だった小寺政職とともに上洛し信長に挨拶をしたとあります。これ以降、織田家への恭順論を推す別所重棟が一緒に登場する記述が多くなります。ですが、
1578年2月下旬に別所長治は突如として三木城に籠り籠城戦を開始しました。おそらく、別所家の方針は別所賀相が主張する抗戦論が強くなったからと言われています。もちろん、別所賀相の抗戦論には毛利家からの加勢や救援も見込まれていたかと思われます。
2.秀吉への不満
「別所長治記」によると秀吉が加古川城で毛利家のための戦略会議を実施したときの出来事がきっかけだったそうです。詳細としては会議には別所長治の代理として叔父の別所吉親、家臣の三宅治忠が出席しました。三宅治忠は戦術を提案しましたが秀吉は完全に無視したそうです。それ故に別所家は秀吉に不満を持ち離反の理由になったそうです。
まとめ
こんなに長引くなんて相当ですね。最終的には別所長治側が食糧尽きたことで戦いは終わったもののそこまで粘れるとは力が強かったのは間違いないです。まあ、サポートした毛利家は弱くないですからね。そう考えると、信長からしたらその家が裏切ったのは最終的に勝ったとはいえ痛手だったとは思います。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。
りかちゅう