どうも、りかちゅうです!戦国時代好きな人なら久秀は信長のことを2回裏切りした。それで、2回目の裏切りに関しては信長はある交渉をしました。それは名物の茶釜「古天明平蜘蛛」を自分に譲れと。久秀はお茶ヲタクでもあり方その茶釜が気に入っていたからそう言ったのかなと。ですが、その交渉が失敗となり久秀は討伐されました。久秀はその茶釜は誰にも譲れなかったから妥協しなかったんでしょうね。だからこそ、この記事にて久秀の最期と彼の茶人ネタについて話しますね!
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一度目の裏切り
久秀は2回目裏切りで討伐されました。ですが、1回目の時は許されました。では、一体1回目の裏切りはどういう経緯だったのか?
1.信長と義昭の確執
久秀は信長が義昭と対立を深めていった時に信長を裏切りました。その時に義昭は信長を排除しようと各地の武将に「信長包囲網」の一員となるよう呼びかけていたしたら、各武将がこれに応えあちこちで戦が発生しました。それで、第2次包囲網に応えたのが武田信玄、三好三人衆、浅井家、朝倉家になど。そして、その中に久秀と嫡男の松永久通の姿がありました。第二次包囲網はまず1572年に信玄は信長と家康を攻めます。そして、久秀も三好三人衆と手を組み信長に反旗を翻します。ですが、1573年4月に信玄は病死してしまいました。そのため、義昭が挙兵したものの、敗退し信長包囲網は一気に崩れさりました。
2.久秀の降伏
ですが、義昭は懲りずに再び信長の討伐を大名に向かって呼びかけます。一方で。信長は三好家を攻め1573年11月若江城の戦いで三好義継は自害し三好本家は滅びました。久秀は義継とともに挙兵していたものよ、12月に信長の降伏勧告を受け入れる形で多聞城を無血開城しました。そして、1574年に信長に名物を大量にプレゼントして助命嘆願しています。その結果、久秀は許されました。ただ、大和国の大半と多聞城は信長が没収しました。さらに、久秀の孫は人質になりました。その後、1574年に久秀は出家して「道意」と名乗るとともに隠居し嫡男の久道が後を継いで信長に出仕しました。
二度目の裏切り
久秀はまたまた裏切りました。それでも、信長は初めは圧をかけてませんでした。では、2回目の裏切りはどのような感じだったのか?
1.石山本願寺攻めで謀反
久秀が再び信長を裏切ったのは1576年の信長の石山本願寺攻めです。久秀は久通とともに大坂の天王寺砦の守備を担当していました。ですが、1577年8月に久秀は突如戦から兵を引き上げるとともに信貴山城に立てこもってしまいます。驚いた信長は久秀と親しかった松井友閑を久秀のもとに使者として派遣しました。そして、「謀反の理由があるなら教えてほしい。望みがあるなら聞き入れる」と久秀に言いました。
久秀の2度目の裏切りなのに信長が下手に出ているという異例ですね。きっとその当時は第3次信長包囲網の真っ最中でバタバタしてました。そんな中、久秀が裏切ったです。となれば、信長としては謀反を何とか防ぎたかったのかもしれません。
2.「古天明平蜘蛛」を求める信長
その当時、信長は今回の裏切りを許す代わりに名物の茶釜「古天明平蜘蛛」を差し出すように久秀に迫ったという話もあります。古天明平蜘蛛は信長がすごく欲しがっていた名物でした。そのため、何度か久秀に譲ってほしいと願っていたものです。久秀はこの要求を無視し決裂に至りました。そして。信長は人質を処刑するとともに久秀を討ち取ることを決意します。信貴山城の戦いの始まりです。
信長は久秀を攻めるための先発隊として筒井順慶、十兵衛。細川藤孝を派遣します。10月1日には先発隊が信貴山城の支城となっていた片岡城を約5000の兵で攻めました。これに対して松永軍は海老名友清、森正友らが1000の兵で城を守っていたものの、落城しました。
信貴山城の戦い
もし久秀が古天明平蜘蛛を信長に譲っていれば激化しなかったんでしょうね。ですが、久秀からしたら宝物だったから無理だったんでしょう。それ故の信貴山城戦いです。どういう戦だったのか?
1.粘る久秀
1577年10月5日に久秀討伐こと信貴山城での戦いの始まりました。織田軍は4万の兵で信貴山城を攻めます。一方で松永久秀率いる8000の兵たちの必死の抵抗により攻め切れません。8000だけなのに粘れるのはすごいですね。だからって、久秀が窮地にあることは変わりません。そこで、久秀は石山本願寺の顕如に援軍を要請しようと森好久を石山本願寺に派遣しました。
2.森好久の裏切り
10月8日に森好久は鉄砲隊200を引き連れて城に無事に帰還しました。さらに、援軍が来るという知らせを聞き久秀はこれで勝機が見えたと大喜びしました。ですが、事態は真逆でした。実は森好久は織田方の筒井順慶の家臣でした。そのため、彼は信貴山城を出発した後に本願寺に行かずに筒井順慶の家臣である松倉重信のもとに行き信貴山城の情報をリークしたんです。要するに、森好久は裏切り者だったのです!もちろん、城に連れて戻った鉄砲隊は松倉重信の兵士です。
3.久秀の自害
10月9日夜から織田軍と松永軍は再び戦闘は開始します。筒井順慶は先頭に立って松永軍を攻めたてました。織田軍は一時撃退されかけて撤退した場面もありました。ですが、森好久が寝返り鉄砲で城内に火を放ったことで松永軍は大混乱に陥ります。そこをもちろん織田軍は攻めたこと松永軍は総崩れになりました。久秀は10月10日に久通と自害します。享年68歳でした。
松永久秀は茶人だった?
久秀はアクが強い武将ってイメージはありますね。ただ、一方で茶の湯を愛する茶人でもありました。ですので、その話を番外編として話しますね!
1.戦国時代の茶会事情
茶の湯は中国から持ち込まれた文化で初めは公家や僧侶の間で親しまれてきました。それから、鎌倉時代には武士の間でも嗜まれるようになり鎌倉時代から室町時代にかけて「闘茶」という茶を飲んで産地や銘柄を言い当てる利き茶が広がりました。
もちろん、戦国時代でも茶の湯は武士の嗜みの1つとなりました。特に、信長が臣下を労う際に土地や金銭の代わりに茶器を与えはじめたことで「名器」と呼ばれるような茶器はどんどん価値が上がっていきました。また、茶道具は外交手段としても用いられるようになります。実際に信長が畿内を平定した時、今井宗久が「紹鴎茄子」「松嶋」を献上しました。このように、茶器や茶道具は戦国大名にとっては一種のステータスとなっていきました。
2.久秀の茶人事情
戦国武将のお茶事情で特に目立っていたのが久秀でした。まず茶人としての久秀は茶人の武野紹鴎の弟子になりました。なんなら、彼は千利休の師である北向道陳や山上宗二、今井宗久など茶人として高名な堺の豪商と茶会を催していました。この交流は久秀か大和国一国を与えられた後も続きました。堺の豪商で茶人としても知られる津田宗達の茶会に招かれいたそうです。
他にも、多聞山城で久秀自身が開いた茶会では松屋久政、若狭屋宗可、久秀の侍医でもあった曲直瀬道三らを招きました。さらに、別の茶会では千利休を招いています。このように、久秀は武士だけでなく文化人との交流もありました。
まとめ
久秀は信貴山城の戦いの時に古天明平蜘蛛を持ちながら爆死したという説があります。これに関してはネタであるため本当のことかは分からないですけどね。ただ、それだけ久秀にとっては大切な茶釜だったということが分かるネタではあります。それくらい久秀はお茶ヲタクとしてのプライドがあったんでしょうね。だから、信長の交渉には乗らなかったのかと。これを見ると久秀ってアクの強い武将だけじゃない一面もあるなかなと思いました。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。