どうも、りかちゅうです!金ヶ崎の戦いでは浅井長政が信長を裏切ったことで信長側が敗走することになりました。この敗走は殿の秀吉、十兵衛、池田勝正の頑張りでなんとかなりました。それで戦いが終わったわけではないです。信長にとってリベンジ戦として姉川の戦いに至りました。その姉川の戦いはかなりの激戦でした。あの信長は苦戦するくらいだとか。では、どんな戦いだったのか?この記事にて話しますね!

姉川の戦いに至るまでの経緯

姉川の戦いに至ったのは浅井長政が信長を裏切ったところから始まりました。まずは、その話からしますね!

1.金ヶ崎の戦い

信長は妹のお市の方を浅井長政に嫁がせました。この政略結婚で信長と浅井長政は同盟を組んだことになります。ですが、浅井長政1570年の4月に金ヶ崎の戦いを機に信長を裏切り、朝倉義景につきました。そのため、信長は退却せざる得なくなりました。金ヶ崎の戦いの詳細はこちらを見てください!

浅井長政の裏切り!金ヶ崎の戦いとは

2.信長の立て直し

信長は軍備を整えるため岐阜城に帰還し、金ヶ崎の戦いから2ヵ月後の6月に信長は近江国の有力者である堀秀村が浅井長政から織田側に寝返ったと言う知らせを受けます。この影響で堀秀村らが守備していた近江国と美濃国の堺にある長比城と刈安尾城は開城されてしまいました。そして、信長は家臣が揃うのも待たずに岐阜城を出立しました。それから、信長は長比城に入り家臣達の軍勢を待ってから本格的に浅井長政を攻めにかかりました。

3.信長、浅井長政を攻撃する

信長は手はじめに浅井長政の居城こと小谷城を攻めようとしました。その際に家臣達に城下町を焼き払わせることを命じました。ですが、小谷城は急峻な山の頂に位置する城であるため、攻めるのは簡単ではありませんでした。そのため、兵を出したとしても大きな犠牲が出てしまうことは予想できていました。

4.作戦変更

織田軍は小谷城からほど近い横山城を攻め落とし前線要塞を作りました。そうすることで、長期的に小谷城を攻略する戦術を見出せることができました。一方で横山城を攻めていた信長・家康に対して浅井長政と援軍に駆け付けた朝倉景健達は小谷城を出立しました。それから、両軍は姉川を挟んで戦います。

姉川の戦いの流れ

このような流れから姉川の戦いが勃発しました。では、どのような戦いだったか?

1.浅井・朝倉の優勢

信長側には家康の援軍も加わり約3万4000人の軍勢になりました。一方で浅井・朝倉側はおよそ2万1000人の軍勢です。それで、姉川の戦いは徳川軍に対峙した朝倉軍が攻めかかったことで始まりました。始めは数の多い信長側よりも朝倉軍が優勢でした。朝倉軍は信長側の酒井忠次らの軍を圧倒しました。さらに、信長側の先鋒に置かれていた坂井政尚の軍も壊滅してしまいました。これは信長からしたらピンチですね。そこで、秀吉の家臣こと半兵衛の働きによって浅井軍を食い止めました。

 

2.家康の援軍で勝利!

浅井・朝倉軍が勢いを付ける中、家康は家臣の榊原康政に朝倉軍を横から攻めさせます。そこから織田軍が攻め、戦いの形勢は織田・徳川軍が逆転しました。

さらに、横山城を囲んでいた織田軍の部隊が援軍として到着したため浅井・朝倉軍はついに敗走をはじめます。これで織田・徳川の勝ちになりました。ちなみに、この戦いは姉川が血で染まるほどの大激戦だったと伝わっています。

3.3年かかった対立

姉川の戦いに勝利した織田・徳川軍は退却した浅井・朝倉軍を追走しますら、ですが、小谷城の守りはやはり固かったため浅井側に致命的な損害を与えることはできませんでした。そのあとは、三好三人衆や石山本願寺」の住職顕如が信長に反発し次々と挙兵します。信長がそれらの対応に追われている隙に浅井・朝倉軍は京都へと進軍したのです。

この状況に至った信長は「志賀の陣」と呼ばれる戦いを経て、浅井・朝倉軍と一旦和解します。まあ、最終的には1573年の一乗谷城の戦いと小谷城の戦いで朝倉・浅井家を滅ぼしました。そこに至るまでには約3年の年月がかかったそうです。

まとめ

こんなに激戦だとは意外でした。まあ、朝倉義景って最終的には信長に滅ぼされたものの、伝統のある武家の人ですからね。その時点で信長よりもベースは強いのは事実なので浅井家と朝倉家を潰すのは難関ではありますからね。そう考えると、この姉川の戦いは家康の支援がなかったら信長もかなり苦戦していたのかなと思いました。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう

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