どうも、りかちゅうです!今回はタイトルを見れば分かりますがあの美濃のマムシです。どう見ても、やっていることがマムシですね。出世のために主君を潰すあたりが)ただ、そのやり方のツケは最期にやってきましたね)。それもあって、あの信長でも圧倒されたという話は聞いたことはあります。やり方はやり方でも実力は本当にあるんですね。何者と思う人もいるのかと。ですので、この記事にて道三の話をしますね!

斉藤道三のプロフィール

美濃のマムシこと道三とは何者なのか?とりあえず簡単なプロフィールから見ていきましょう!

名前 斉藤 道三

道三は法号で正式に「道三」と名乗るようになったのは、隠居のため寺に入って以降のことです。最終的に斎藤利政という名に落ち着きました。ただ、斎藤利政ではなく、その後に斎藤秀龍を称したという説もあります。

生年月日 1494年

没年 1556年5月28日

備考

斉藤道三の人生

 

1.生い立ち

道三の出自についてはよく分かっていません。一応お父さんは長井新左衛門尉の別名こと松波庄五郎とされています。まあ、長井新左衛門尉に関しても不明な点が多いです。どうやら彼は元々武士でありながら事情があって浪人となったそうめす。道三は11歳で京都の妙覚寺へ入り、法蓮房の名を受け僧侶となります。

2.油屋になる

道三は20歳で還俗し、油問屋の奈良屋又兵衛の娘を妻にに油商人に転職しました。油商人の時の道三は「漏斗を使わず、油を一文銭の穴に通します。油がこぼれたらお代はいただきません」という謳い文句で道行く人の気を惹き商売を大成功させたそうです。ですが、行商に行った先で武士から「その力を武芸に注げば良い武士になれるものを」と言われたのをきっかけ道三は油商人をやめました。そして、槍と鉄砲を学んで達人となり念願の武士になります。

3. 長井長弘に仕える

武士としての道三は初めは美濃国の小守護代長井長弘に仕えます。長井長弘は美濃国守護の土岐家の家臣にあたる武将です。ちなみに、長井家に仕えるに至ったのは以前入っていたお寺のつてと言われています。ちなみに、道三はこの頃西村勘九郎を名乗っていました。その後、道三は長井長弘の所で武芸と才覚で頭角を現しました。そのため、美濃国主・土岐家の次男土岐頼芸に一目置かれる存在となります。

4. 土岐頼芸側につく

美濃国は応仁の乱以降、内紛続きの土地でした。さらに、1525年には長井長弘の反乱により土岐家はもはや安泰とは言えなくなりました。なんと、守護の座は土岐家のままでしたが政治的実権は長井長弘が握っていました。これでは、土岐頼芸を立てても道三は権力を得ることができません。そのため、道三にとって、長井長弘はすでに邪魔な存在になっていました。そして、1527年に土岐家で家督争いが勃発しました。詳細としては土岐頼芸とお兄さんの土岐頼武との間で家督争いが起こると道三は土岐頼芸側に付き土岐頼武を追放しました。

この一件で道三はますます土岐頼芸の信頼を得ることになります。さらに、道三は土岐頼芸の妾こと「深芳野」を側室として譲り受け長男の斎藤義龍を授かりました。

5.主君を殺害する

道三が自分の主君である長井長弘を行ないが悪いとして殺害しました。1530年のことです。それから、道三は長井新九郎規秀と名乗りました。さらに、都合の良いことに1538年長井家より位の高い守護代斎藤利良が病死しました。これをきっかけに斎藤姓を持って斎藤新九郎利政と名乗り、自らの地位を高めました。もちろん、道三の野望がここで潰えることはありません。

実は美濃国は土岐頼武を追い出したことで土岐頼芸が実質的な守護の座に就いていました。ですが、土岐家の家督相続争いは続いていました。ただ、1536年に土岐頼芸が正統な守護の座へ就任し、土岐一族内での和睦が進みました。一方で1541年に突如として道三が土岐頼芸の弟こと土岐頼満を毒殺します。

6.土岐家と戦う

道三は土岐頼芸に反旗を翻しました。まず道三は1542年に土岐頼芸の居城こと大桑城を攻撃し土岐頼芸とその子供の土岐頼次を尾張へ追放します。もちろん、道三に手のひらを返された土岐頼芸は黙ってはいませんでした。そこで、信長のお父さんこと織田信秀と朝倉孝景の後援を得て土岐頼芸は揖斐北方城と革手城を取り戻しました。

7.道三の勝利

1547年に織田信秀が美濃へ攻め入ってことで加納口の戦いが勃発しました。斎藤道三は、当時居城とした「稲葉山城」に立てこもり敵を迎え撃ちます。結果は道三が勝ちました。一方で織田信秀はこの戦いで命からがら逃げ帰ります。そのため信秀と道三は和睦しました。そして、1548年に道三は娘の帰蝶を信長に嫁がせます。この和睦により1552年には土岐頼芸を再び追放しました。これで、道三は美濃国を完全に乗っ取り国主として君臨しました。

8.息子との関係

道三の美濃乗っ取りは長期戦でした。美濃に入り土岐家を追い出して事実上の権力者となるまでに約20年、美濃を完全に掌握するまでに約30年かかったそうです。それから1554年道三は家督を長男の斎藤義龍に譲ります。そして、道三と号して鷺山城へ隠居しました。ですが、道三がそのまま隠居生活を送ることはないです。道三は側室との間に儲けた斎藤義龍よりも正室との間に生まれた孫四郎や喜平次を偏愛し義龍の排除を考え始めます。なぜなら、義龍の誕生には疑惑があるからです。

あくまで俗説ですが芳野を側室にもらった月から義龍が生まれるまでの期間が短いのです。そのため、斎藤義龍は土岐頼芸の子どもではないかという噂が流れたか何者かが斎藤義龍に土岐頼芸の子だと吹き込んだとも言われています。斎藤義龍も本当のお父さんは土岐頼芸であり斎藤道三こそが敵ではないかと考えるようになりました。

 

9.確執が深まる

ただ、この話には裏があります。道三が美濃を乗っ取り権力をほしいままにして政治的に独断を下していたそうです。そのため、美濃の有力者達は不満を抱いていたと言います。そこで、周りは道三を排除して斎藤義龍を立てれば道三の独裁が終わり自分達も何らかの権力を得られるかもしれないと考えました。このように、道三は家督を譲っても道三の影響力は強かったです。なんなら、本当は斎藤義龍に家督は譲られていなかったのではないかという説もあります。このような確執から1555年に斎藤義龍は行道三が可愛がっていた弟達を殺害しました。

10.斎藤義龍に討たれる

1556年に道三と斎藤義龍による長良川の戦いが勃発しました。道三の兵2500に対し、斎藤義龍の兵は17500で圧倒的な戦力差がありました。土岐の家臣団で道三に味方する者はほとんどいなかったのです。一方で道三は信長に援軍を要請したものの間に合わず討死にしました。享年63歳でした。

斉藤道三の逸話

下剋上で武将になれた道三。ただ、かっ飛ばしたことで晩年には色々ありましたね。それで、そんな道三には逸話があります。ですので、その話もしますね!

1.名前がたくさん!

道三は生涯のうちに何度も名前を変えています。幼少期に法蓮房の名をもらい受ける前は峰丸、油商人になってからは山崎屋という屋号を称したそうです。のちに武士として主君に仕えるようになってからも道三は何度か名前を変えました。ただ、父の姓は「松波」である説が有力です。

2.政略結婚でコネ作り!

道三はただ優れた先読み力で美濃国主まで上り詰めた訳ではないです。

土岐家の家臣ではなかった道三が上に認められるには強固な繋がりが必要です。そこで、道三は娘達を次々と政略結婚させることで自身の権力の安定を図りました。

まず、美濃を掌握するために土岐家に仕える稲葉貞通を土岐頼芸の息子に娘を嫁がせています。こうやって美濃を内側からじわじわと懐柔していったのです。また、道三は娘を政治的に重要な相手に嫁がせるというやり方を隣国との同盟にも使いました。信長と帰蝶がまさにそうです。

まとめ

こんな勢いで出世する人もいるんですね。書いてて驚いちゃいました。秀吉の方が泥臭い形で出世しているなら道三の場合はいきなりグイグイした感じといえばいいのか。それだけ実力はあったんでしょうね。ただ、主君を殺害など強行的なことをしていたからこそ最期は味方がほぼ無しだったのかと思われます。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

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