どうも、りかちゅうです!今回は戦国のたぬきのことについてです。誰だか分かりますね。有名人にそれって流石に失礼って?だって本当のことじゃないですか?とあるあの別称の方が不名誉ですし(その別称は読めば分かります)。まあそんなことはさておき、家康は天下を取るまでが波瀾万丈でした。幼少期なんて尚更のことですね。親元を離れて生活していたわけですから。また、晩年に開花したのが家康です。だからこそ、この記事にてその経緯を話しますね!
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徳川家康のプロフィール
みんな知っているとは思いますが彼のプロフィールを一応どうぞ!

名前 徳川家康
生年月日 1543年1月31日
出身地 尾張国
没年 1616年6月1日
備考
戦国のたぬきです。江戸幕府を立ち上げた人です。実は本当はリーダー的存在よりもサポートのする側の方が好きだったりしたそうです。ちなみに、信長と家康は小さい頃からの中でした。
徳川家康の人生
以上が家康の人生です!彼は天下を取るまでが一苦労でした。ですので、その話をしますね!
1.生い立ち
家康は1542年12月26日に三河国岡崎城で松平家8代当主「松平広忠」の嫡男として生まれました。幼名は竹千代です。大元はこれは愛知県の「大浜てらまち」と呼ばれる地域にある時宗の寺院「大浜称名寺」が命名したと言われています。それ故に松平家(のちの徳川家)の未来の当主竹千代という幼名になります。
ただ、そんな家康は幼少期の頃にある事態に見舞われることに。それは、今川義元の人質となることです。当時、松平広忠は信長のお父さんこと織田信秀による三河進攻に対抗するために今川義元へ加勢を願っていました。そして、今川義元はその見返りとして家康を人質に要求したのです。それ故に、家康はわずか6歳と言う年齢で親元から離れることになりました。
※その前に家康は2年間だけ信長の人質でした。でも、信長は家康を気に入り弟のように家康を可愛がったそうです。実は家康と信長の方がご縁の歴は長いんですよね。
2.今川家の人質の頃の家康
家康は今川家で12年間ほど人質生活を送りました。ですが、冷遇されていたわけではありません。むしろ、戦国時代の武家は人質をその家の人材にするべく育成するという考えでした。そのたま、今川義元は家康を教育係しました。まず、軍師としても重用していた禅僧太原雪斎を家康の学問の師にしています。ちにみに、太原雪斎は今川家臣の子供で京都の寺で修行していた頃から秀才で今川義元のお父さんが頼み込みまでして今川義元の教育係になってもらったそうです。
また、今川義元は家康の元服で烏帽子親という元服のときに烏帽子をかぶせる役目を担う仮の親を務めました。さらに、人質時代の家康には母方のおばあちゃんこと源応尼や三河国から同行してきた家臣が付き従っていました。こんなにサポートがあるなんて逆にすごいですね。
3.信長の元に行く
信長は桶狭間の戦いでゲリラ豪雨に紛れて夜中に今川本陣を急襲し今川義元の首を取りました。一方で家康は今川軍として参戦していましたが敗戦を機に国元の三河国に帰りました。そして、お父さんこと松平広忠が果たせなかった三河国統一に乗り出します。 もちろん、これは今川家を敵に回すことでもありました。
そこで、家康は信長と「清州同盟」と呼ばれる軍事同盟を結んで乗り切ることにします。これは信長にとっても悪くない関係です。なぜなら、家康と戦わずに済むことで、美濃国攻略に専念できたからです。まあ、元は家康は信長と仲良いから戻ってきたようなものですね。その後家康と信長は天下統一のために共に動いていました。
4.秀吉と対立
信長が1582年の本能寺の変で亡くなると秀吉が織田家臣団のトップに立ちました。この時の家康は着実に領土を拡大して力を蓄えていました。それで、1584年に秀吉と信長の子供こと織田信雄が対立して起きた「小牧・長久手の戦い」で家康は信雄について善戦しますがこの戦いは秀吉が信雄を説得して和解した。
5.秀吉との和解
まだ終わりではないです。秀吉は家康を抱き込もうと画策しています。そこで、1586年には秀吉の妹こと朝日姫を家康に嫁がせたものの、家康が挨拶に出向いてこないので、今度は秀吉のお母さんこと大政所を人質に差し出したのです。ここまで来た家康は折れるしかなく大阪城にいる秀吉のもとに行き臣従する姿勢を見せました。
6.国替え命令が出る
豊臣政権下の家康は今川家の遺領・ こと駿河国と遠江国、武田家の旧領こと甲斐国と信濃国を手に入れことで地元の三河国と合わせて5ヵ国を領有するまでになっていました。ただ、この急成長を警戒し秀吉は1590年の「小田原の役」で関東の有力大名・北条家を滅ぼすと家康から5ヵ国を取り上げる代わりに代わりに北条家の旧領地である関東一円を治めるように命じました。
そのため、家康は引っ越ししなきゃいけなくなりました。だから、家康は江戸で幕府を開いたんです!ただ、今となっては東京は栄えているものの、あの当時はど田舎でしたからね?そこで、まず家康は関東地域の治水工事や新田開発に取り組み、豊かな都市に改造していきました。家康があっての今の東京ですね。
7.野心を見せる家康
晩年の秀吉は秀頼が成人するまでの政務を五大老と呼ばれた家康を含む5人の有力大名に託しました。この五大老のなかでも家康は最も高い石高と強い発言力を持つ筆頭格だったのです。そして、秀吉が亡くなると家康は他の大老を国元に帰して政務を独占しました。さらに、豊臣政権が禁じていた政略結婚を進めて諸大名と繋がろうとするなど野望を隠さなくなっていきます。
もちろん、それに怒る人はいます。それは三成です。三成は勝手な真似をする家康に激怒しました。もちろん、家康は家康は天下を取るうえで三成が必ず邪魔になると考えていたため福島正則など秀吉な亡くなってからの豊臣家に仕えることを悩んでいた豊臣家の家臣らを味方に付けます。
8.天下分け目の関ヶ原!
1600年に五大老の1人でもある上杉景勝に謀反の疑いをかけて討伐軍を結成しました。これを会津討伐と呼ばれ、関ヶ原の戦いが起こるトリガーとなりました。ほどなくして、家康の目論見通り三成が挙兵したという知らせが入ったため軍の行先を三成のもとへと変更します。そして、家康が率いる東軍と三成が率いる西軍は美濃国関ヶ原でぶつかり関ヶ原の戦いが起きます。
関ヶ原の戦いは、本戦が始まってた時は三成が優勢なものの、後半になる時に小早川が三成を裏切ったため東軍が勝利しました。総勢15万人という大規模戦なのに約6時間と言う短時間な戦でした。
9.江戸幕府と大阪の陣
1603年家康は征夷大将軍となって、江戸幕府を開きました。ただ、家康は将軍となってからも豊臣方の反乱を阻止するために目を光らせる必要があったため頻繁に上洛したり西国で抵抗を示す大名に戦を起こす時間を与えないように諸大名へ江戸城の普請を命じたりしました。そして、1605年になると家康は将軍職を徳川秀忠へ譲り、駿府城へと移住しました。
それから、1614~1615年には大坂冬の陣・夏の陣によって豊臣家を完全に滅亡させ天下を完全に掌握することに成功しました。
10.晩年
落ち着いてからは家康は趣味としていた鷹狩りに興じますが大坂冬の陣・夏の陣の1616年1月に鷹狩りの最中に倒れ3ヵ月後の4月17日にこの世を去ります。原因はよく言われてる天ぷらです。1616年1月、家康に「上方で流行している珍しい料理」として鯛の天ぷらが献上されました。この頃の天ぷらは「付揚げ」と呼ばれ、今のように衣を付けた揚げ物ではなく唐揚げに近い料理でした。家康は大いに気に入り、大量の天ぷらを食べちゃいました。ところが、その天ぷらを食べすぎたのか家康はその日の夜中に腹痛を起こします。それ以降は体調が完治せず医者がいくつかの薬を処方しましたが回復しません。
※晩年家康には食欲不振や胸のつかえ、腹部のしこり、体重の減少、吐血などの症状があったことから胃がんを患っていたのではないかという説もあります。これらの不調を家康は寄生虫によるものだと思い込み下剤を服用し続けました。
家康の逸話
以上が家康の人生です。知ってる人は知っている話ですね。ただ、家康にはこんな一面があるのってこともあります。ですので、その話をしますね!
1.自分で薬を作っていた?
家康の死因のひとつに常用していた薬の中毒説があります。家康は薬学をよく勉強し自分で薬や精力剤を調合していました。ただ、家康は調合の際に毒性のあるヒ素や水銀を用いることがありました。これらが身体をむしばんでいたのではないかと言われています。また、家康は薬学や医学に精通していたそうです。ただ、過信し過ぎが晩年には仇になったのかもしれませんね。
2.脱糞伝説!
家康が「三方ヶ原の戦い」で信玄に大敗しました。その際に、家康は敗走時に脱糞したそうです。それくらいメンタルがえぐれたってことですね。それ故に家康は脱糞将軍みたいな言われ方をしている時もあります。
3.倹約家でもある
家康の逸話としてよく知られているのがケチだったと言う話です。自分が着用する着物はいつも同じでそれを周りに指摘されたときは「倹約している」と返答したそうです。また、下着も多少の汚れ程度であれば繰り返し使っていたそうです。武家の家でそのマインドってレアですよね。ただ、そこまでしていたのはいざという時の資金作りのためだったそうです。
まとめ
そこまで倹約していたとは思っていませんでした。倹約でも服装くらい最低限のことをしたらと思いましたが。清潔感に関わってきますし。あと、家康がいないと今の日本はないと思っても過言ではないですね。家康が江戸にお引っ越しがあったから江戸が栄えたわけですし。そう考えると、家康は今の日本を作り上げたと言っても過言ではないかと思われます。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。
りかちゅう