どうも、りかちゅうです!「べらぼう」で定信と重三郎が手を組むという展開になりましたね。手を組むとは言っても仲は良いとは言い難いですが。そこはどこかしら仲良くなれない一面はあるんでしょうね。まあ、そんなことはさておき、その影響で重三郎は「曽我祭」に力を入れることにします。この祭りは事実にあります。ですので、この記事にてその話をしますね!

曽我祭って何?

「曽我祭」とは江戸の祭りの1つです。江戸の歌舞伎劇場で曽我兄弟の仇討ちを題材にした「曽我狂言」が正月から5月までロードショーされていました。それもあって、継続興行した年には曽我兄弟の討ち入りがあった5月28日ごろに曽我祭をやっていました。

祭りの内容としては芝居の守護神として楽屋に祀られていた「曽我荒人神」のお祭りが起源でもともとは楽屋内で執り行われる内輪の行事ではありました。ですが、1753年から中村座での初春興行が大成功を収めた時に初めて舞台上でこの祭礼を披露したことで注目を集め、以後は中村座・市村座・森田座の江戸三座では恒例行事となり1818〜1830年ごろまで続けられました。

江戸で流行った理由と魅力

以上が曽我祭の概要です。ここまで売れて祭りにまでされるなんて相当人気だったんですね。では、なぜそんなにヒットしたのか?

流行った理由

曽我兄弟の忠義心と兄弟愛に満ちた物語は武士道の理想像として語り継がれました。そして、江戸時代になると武士だけでなく庶民の心を打つ伝説として人気を集めました。それ故に、曽我兄弟を題材にした歌舞伎演目でき毎年初春の定番として興行されていました。ちなみに、「曽我狂言」は人気演目として正月から5月までロングランすることもあり、その年に「曽我狂言」が当たると5月28日を中心に江戸の芝居町では盛大に「曽我祭」が催されました。

魅力

曽我祭の最大の魅力は舞台と楽屋、町中が一体となったそのスケールの大きさにあります。仕切場には神輿が飾られ、幕間には神楽が奏でられました。また、舞台では座中総出演による豪華な舞踊が「大切」として披露され曽我祭は観客にとっても特別な一日となりました。

さらに、楽屋でも賑わいは続き公演の終了の後には酒宴が催されたり、練物や余興を演じたりしながら町内を行列していました。そのため、人気の役者の素顔が見られる貴重な機会でもありました。一方で、あまりの豪華さや贅沢さが幕府の風紀取締りに抵触しするため弾圧の対象になるという一面もありました。

「べらぼう」との関係性

「べらぼう」でも曽我祭はキーポイントとされています。詳細としては定信から呼び出された重三郎はかつての徳川家基暗殺の黒幕である一橋治済を誘き出す策として「平賀源内が実は生きている」という噂を世間に広めるよう命じられます。その際に、重三郎は曽我祭に着目します。

曽我祭ならば役者が素顔で町を練り歩く華やかな行事だから広められますからね。そして、重三郎は「平賀源内が描いた」風の蘭画役者絵を出版するという形で噂を一気に広めようとします。

まとめ

今の時代でも小田原にて曽我祭をやっているんですね。時期もその当時と変わりないです。それで、今の時代は傘焼きがモットーとなっています。あの当時の傘を焼く感じですね。盛大に焼きます。理由としては曽我兄弟が父の仇討ちの際に雨傘を燃やして松明にしたからだそうです。それで、今の時代は願い事を書いた傘を燃やして成就を願うのと同時に曽我兄弟の忠義・孝行を称え武士の美徳を伝えるための伝統行事となっています。

伝統を引き継いでいる感じがしますね。これを見ても、曽我祭は思う以上に有名で大きな祭りなのかなと思われます。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう

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