どうも、りかちゅうです!重三郎は定信が老中になってからは定信に対抗していました。それくらい、黄表紙や狂歌など人々を笑わせる書物に命をかけていたってことでもあると思います。ただ、そのせいで重三郎は処罰されてしまいました。版元だからこそ刑罰は作者よりも重いです。ただ、彼は処罰が終わってからも活動はしています。ですので、この記事にて彼の処罰後について書きますね!

重三郎が処罰された理由

にしても、なんで重三郎が処罰されたのと思いますね。ですので、その経緯を話しますね!

1.寛政の改革と出版統制

寛政の改革の時期になると事情が変わり重三郎は意次の時のように自由にはできなくなりました。なぜなら、定信は飢饉や天災の影響で経済がマイナスになったのを立て直すためにストイックな倹約をしていくからです。まず定信さ農業を中心とした経済政策を推進しました。これは幕府の財政を立て直すことを目的としています。そして、定信風紀の取り締まりや出版物の規制が強化しました。定信の出版統制のことはこちらを見てください!

出版統制令と寛政の改革と文化人

2.京伝の作品で咎められる

1791年に重三郎は京伝の洒落本「仕懸文庫」「錦の裏」「娼妓絹麗」を刊行しました。ですが、これらの出版物が幕府のお咎めに触れました。これにより、重三郎は財産の半分を没収と50日の手鎖の刑を受けるという厳しい処罰を受けました。また、山東京伝も50日間の手鎖の刑に処されました。

この処罰は見せしめ的な要素が強かったです。ただ、重三郎のビジネスが成功し注目を集めていたことの証拠ではありました。ですが、この弾圧により狂歌ブームは収束し重三郎の出版物の人気は衰えてしまいました。

処罰後の重三郎

処罰があったものの、重三郎は処罰が終わってからも活動をします。ですので、その話もしますね!

1.処罰が終わったらまた活動する

重三郎は財産の半分を没収されましたとのの、その後も出版業界で活動を続けました。重三郎は引き続き才能ある作家や浮世絵師を支援し続けました。特に歌麿や東洲斎写楽などの作品を出版しました。また、重三郎の家には多くの芸術家が寄寓し生活の面倒を見ていました。ただ、歌麿は他の版元からも出版の誘いが多くなり、蔦重のもとを離れることになりました。

2.新たなメンツをプロデュース!

1792年に京伝の家に居候していた武家出身の戯作者こと曲亭馬琴は重三郎が雇用し、次世代の戯作者として育成しました。馬琴はのちに耕書堂から読本・黄表紙・合巻などを出版し自立して生計を立てた。また、重三郎は葛飾北斎に京伝や馬琴が書いた黄表紙の挿絵を描かせるなど次世代の浮世絵師として育成しました。ちなみに、重三郎の死後に北斎は耕書堂の看板絵師となりました。

3.東洲斎写楽をデビューさせる

1794年に重三郎は幻の浮世絵師その東洲斎写楽をデビューさせたましました。写楽はわずか10カ月の間に「三代目大谷鬼次の江戸兵衛」「市川鰕蔵の竹村定之進」などの役者絵や相撲絵など145点ほどを残しました。それなのに、忽然とその姿を消しています。

ただ、写楽の作品は当時は話題にはなってもそれほど人気はなかったそうです。

このように、写楽の正体は謎です。正体は京伝説や葛飾北斎説とも言われています。理由としては途中で作風が変化するからだそうです。また、近年の研究では阿波国徳島藩主の蜂須賀氏お抱えの能役者「斎藤十郎兵衛」説が有力ともされています。

まとめ

重三郎が処罰した後に登場してきた名前がちらほらありましたね。教科書に載っている人だから懐かしいなと思いました。だからって、その人たちの詳細は分かっていませんが←。そう考えると、重三郎は処罰されてからもめげずに色々活動していたのかなと思われます。寛政の改革だって終われば文化規制はなくなりましたし。このように、何があってもめげないところは重三郎らしいなと思いました。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう

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