どうも、りかちゅうです!意次が失脚したら次は定信ですね。若手の老中なんてそういないから相当優秀だったのかなと。あと、定信からしたら政をやれるのは大出世ではあるかと思われます。それで、彼が老中としてやったのは「寛政の改革」です。彼は飢饉や打ちこわしでグダグダな日本を取り戻そうとしたもののやりすぎで逆効果になりました。一体どのような改革か?この記事にて話しますね!

松平定信とはどんな人?

寛政の改革をやったのは松平定信です。彼の家柄は将軍になれる所でした。なぜなら、彼は御三卿の1つでもある田安家の人間だからです。ですが、色々あって松平家の養子になってしまいました。その原因が田沼意次と言われていますが。そのため、定信は意次を失脚させて出世したいという欲はあったのかと思われます。寛政の改革の内容も意次と逆のことをしていますからね。まあ、彼の話は長くなるのでこちらの記事を見てください!

寛政の改革の人!松平定信とはどんな人?

寛政の改革の内容

以上が松平定信の概要です。では、寛政の改革とはどのようなものか?

1.倹約令と棄捐令を出す

佐田のは経済対策として「倹約令」や「棄捐令」を行いました。特に「倹約令」は寛政の改革を象徴するものとも言われています。倹約令は本当は無駄な支出を減らし、財政を安定させるための政策ではありました。ですが、定信は倹約令で乱れた風紀を取り締まりたいという思惑がありました。そのため、単に節約させるだけでなく着物の素材や食べるもの、観劇や読書などの細かい部分も厳しく規制しました。そのため、町の活気は失われ経済は停滞してしまいます。

また、「棄捐令」は借金に苦しんでいた旗本や御家人を救済するための政策です。詳細としては利子が引き下げられ5年以内の借金は取り消しとなりました。一見良いように思えるものの不満に思う人は出てきます。なぜなら、お金を貸していた人は資金回収できない大きく損をするからです。その結果、武士に対してお金を貸さなくなりました。

2.朱子学以外の学問を禁止する

定信が老中に就任した時、大名や庶民は幕府に対して大きな不信感を抱いていました。そこで、反乱を防ぐためにも幕府に忠実な人材を育てたいと考えた定信は「寛政異学の禁」を出しました。内容としては幕府の学問所において朱子学以外の学問を禁止するということです。朱子学は上下関係の秩序を重んじることを説いています。そのため、幕府にとっては好都合な学問だったのです。それと同時に、歴史書の編さんや古文書の整理など江戸時代初期の気風を人々に思い起こさせるために定信は朱子学を広めました。

また、定信は朱子学を学ぶ昌平坂学問所を作りました。ただ、この学問所は講義を朱子学と定めただけで藩や民間の学問にまで朱子学を強要したわけではないです。とは言っても、やりすぎなためこの政策には多くの学者から激しい非難の声が上がりました。

3.農民を地元に戻す

当時の江戸は冷害や災害のために不作が続いて生活に困窮していました。そのため、江戸へ出稼ぎに来ている農民がたくさんいました。これは農村に人がいなることになるため米の生産量はますます減り年貢が集まらなくなります。

そこで、定信は農民を故郷に帰すために旧里帰農令を出します。その際にこの令な応じた人にはお金を出し地元で農業を続けるように促しました。

4.囲米の制を作る

定信は大規模な災害や飢饉に備えるために大名に蔵の建設と穀物の備蓄を命じました。この政策は「囲米の制」と呼ばれます。囲米は諸大名に1万石につき50石を5年間領内に備蓄させました。それによって、幕府の囲米が55万石、諸大名の囲米は88万石に達したといわれています囲米の制によって凶作や天災や天災対策となりました。また、町人が暮らすエリアには「七分積金」を導入して、緊急時の救済基金としました。

5.作物の生産制限

米の生産を増やしたいと考えた定信は「商品作物の生産を制限」しました。これまで貨幣を得るために作っていた作物の生産を制限されると農民は困ります。意次のときは貨幣が重視されていましたから余計に反発が強かったです。

重三郎と寛政の改革

寛政の改革は「べらぼう」の主人公こと重三郎にとっては苦痛なものではあります。なぜなら、定信は文化作品などを規制したからです。特に吉原の風俗的なものは定信はお金がかかると言って嫌がったのかなと思われます。また、重三郎はその時期に処罰されます。もちろん、重三郎以外の仲間たちもそうです。ここら辺の話は後ほど分かってくるかと思われます。

寛政の改革の結果

このようなやり方はもちろん批判は出てきます。では、寛政の改革の結果どうなったか?

1.皮肉な狂歌が生まれる生まれる

寛政の改革で幕府の財政は一時的に潤い人々の生活も安定したかに見えました。ですが、風紀紊乱の取り締まりが厳しすぎました。男女混浴や女性の髪結い、賭け事の禁止など町民の暮らしにまで及んだため次第に世間の反感を招くようになりました。そのため、庶民ではこのような狂歌が流行りました。

白河の清き魚の住みかねて、元のにごりの田沼こひしき

簡単に言うと定信の厳しい時代より意次のゆるい時代が良かったという内容です。初めは定信に期待してた庶民もやりすぎな規制で寝返った感じではありますね。

2.成果は上がらなかった

寛政の改革は成果が上がらないものがたくさんありました。「旧里帰農令」は強制力がなかったため江戸に出てきた農民のほとんどが従わなかったそうです。また、定信は無駄づかいの温床だった「大奥」にも倹約を求めますが浪費に慣れ切った大奥からしたら反感を買っただけで効果はありませんでした。さらに、「棄捐令」では結果的に旗本や御家人がより困窮してしまいました。

3.定信の失脚

1792年に徳川家斉が実父に大御所の称号を贈って定信を江戸城に迎え入れようとします。ですが、曲がったことが嫌いな定信は「大御所は隠居した将軍にのみ許される」として却下しました。これがきっかけとなり、1793年に定信は失脚しました。それ以降徳川家斉が直接政治を司る「親政時代」が始まります。

まとめ

定信のやったことはやりすぎだったんでしょうね。確かに、定信が就任した時は治安がダメダメだったかと思われます。お米が食べれなくて困っていた人もいますからね?だからって、規制のしすぎは返って逆効果になるかと。過ぎたるものは及ばざるが如しとはこういうことですね。このように、定信は秀才で優秀だったもののやりすぎのせいで改革が改革じゃなくなってしまったのかなと思われます。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう

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1件のコメント

  1. ピンバック: 出版統制令と寛政の改革と文化人 - Rikachu’s theory

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