どうも、りかちゅうです!天明の飢饉の次は天明の打ちこわしが起きました。理由は米不足の時に米を買い占めてる商人がいたからです。あの時の商人ってゲスい人はとことんゲスいですからね?また、天明の打ちこわしで田沼意次は失脚するフラグが上がりました。それはそうですよね。国民の不満が高まるのに居残れないですから。このように、天明の打ちこわしは歴史的にもキーポイントです。ですので、この記事にて話しますね!
打ちこわしとは
「打ちこわし」とは農民が商人や名主、金貸しらを襲った出来事です。江戸時代に飢饉の後などに江戸や大阪などの都市部で起こりました。この概要だけ聞くと百姓一揆や米騒動と何が違うのと思う方もいるかと思われます。百姓一揆は都市から離れた農村で領主や役人に主張する活動のことです。また、米騒動は米価高騰に対する抗議という名の騒動を指します。
打ちこわしが起きた背景
打ちこわしは米の価格を引き下げるという目的で行われました。その背景は飢饉が起き米不足になることがきっかけです。金を持っている商人たちは自分の食事を確保するため町にある米を買い占めてしまいます。その結果、市場に出回る米の量が減り米の価格が高騰しました。そのため、腹を立てた都市部の人達が米不足で上がった米価を下げるようとデモを起こしました。具体的には商人、名主、金貸しらの屋敷を叩き壊して抗議することです。それが打ちこわしです。
具体的には領主や役人に対して直接的に「年貢を減らしてほしい」「不正行為行っている役人を処罰してほしい」と訴えた百姓一揆とはちがいます。対象や行為を考えると打ち壊します。そう考えると打ちこわしの方が破壊的とも感じられます。
天明の打ちこわしとはどのようなものだったか?
天明の打ちこわしは打ちこわしの中でも有名です。では、どのようなものだったか?
1.天明の飢饉の発生
天明の打ちこわしが歴史上特に注目される理由はこの打ちこわしの影響で田沼意次の政治が終焉を迎えるきっかけになったからです。天明の打ちこわしは1787年5月20日に起き全国的に広がっていきました。天明の打ちこわしが起きるきっかけとなったのが天明の大飢饉です。天明の大飢饉のきっかけはまず1782年に天明の大飢饉によって奥羽地方で冷害が起きたことで死者が11万人に達したそうです。そして、1783年には浅間山が噴火し墳灰の影響で農作物の不作が発生しました。詳しいことはこちらを見てください!
2.幕府の対応
その当時の幕府の筆頭格であった田沼意次は飢饉が発生していたのに財政維持を優先的に進ていたそうです。その結果、米の流通量が減り食料難がますます深刻化しました。そのため、天明の打ちこわしが引き起こされ全国的に広まっていったのです。この影響で田沼意次は失脚しました。さらに、飢饉への対応の失敗や暴動を押さえ切れなかったことから幕府の権威も低下しました。
3.天明の打ちこわしの逸話
天明の打ちこわしでは米屋に乗り込んで打ちこわしはしたものの実は代金を支払って米を持って行ったという記録が見つかっているそうです。また、打ちこわしに参加しなかった人々にも持ち帰って米を分けたという内容の記載もあるそうです。
それだけではないです。襲撃対象となった家への放火や暴力は行われず死傷者は一人もいなかったそうです。要するに、打ちこわしは建物の被害があっても人的な被害はなかったということです。それもあって、打ちこわしで重罰に処される者が出ませんでした。逆に大阪、京都、駿府などの全国の都市に打ちこわしが拡大していきました。
打ちこわしにはルールあり!
打ちこわしにはルールがあります。そのルールは人を傷つけない、武器や火気は禁止、米を盗まないです。このようなことを踏まえると、打ちこわしは米が欲しいではなく、米を買い占めた商人を懲らしめるものだったのかと思われます。
まとめ
人を傷つけたり米を盗んだりしないで訴えるのは頭いいですね。その方が幕府も動くに動けないからこそ各地で打ちこわしをすることができます。これならば商人をいい感じに痛い思いに陥らせることができますね、このようなことを踏まえると、打ちこわしは頭の使ったやり方なのかなと思われます。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。
りかちゅう