どうも、りかちゅうです!今回の記事は私的には教科書で見たことある名前の人だなとは思っています。とは言っても、「べらぼう」がなかったらその人は何をしてたかは分からなかったですけどね。それが大田南畝なのかと?そうです。南畝は狂歌を流行らせた人物と言っても過言ではありません。また、規制が厳しくなった頃には武士としても活躍しました。マルチな方ですね。何者と思いますよね。だからこそ、この記事にて話しますね!
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大田南畝のプロフィール
狂歌マスターこと南畝は一体何者なのか?まず簡単なプロフィールから見ていきましょう!
名前 大田南畝
本名は「大田覃」です。
生年月日 1749年4月19日
没年 1823年5月16日(享年74歳)
備考
Mr.狂歌とも言えるくらい狂歌の先駆者であります。彼の作品はそう来たかと思うものばかりです。また、寛政の改革になって風紀関係で規制が厳しくなったら幕政に携わりました。大半の文化人は処分されて堕ちる人かこじんまりと活動しています。一方で、南畝は時代に沿って生きましたね。
大田南畝の人生
以上が南畝のプロフィールです。文化人でもあり武士でもある人なんてなかなかいないですよね。では、彼はどんな人生を歩んだのか?
1.生い立ち
1749年に南畝は大田正智という江戸牛込中仲御徒町の幕府御家人の家に生まれます。余談ですが私の家に近いですね。大田正智は御徒といって将軍の外出時、徒歩で護衛をする仕事をしていました。とは言っても下級武士でした。
ですが、南畝は幼少期から頭脳明晰でした。そのため、教育熱心だったお母さんが学問の師匠を探しわずか6歳で多賀谷常安のもとへ入門しました。その後、南畝は歌人の内山賀邸の門下となり国学や狂詩、漢詩などを修得したそうです。
2.処女作デビュー
平賀源内に憧れた南畝は源内を手本にして滑稽を主とする狂詩を作り始めます。そしたら、1767年に南畝がそれまで書き留めていた狂詩を源内が絶賛しました(源内は風来山人という名前で狂歌の活動をしていました) 。そのため、南畝は処女作こと「寝惚先生文集」が刊行されました。その際に序文はなんと源内に書いてもらったそうです。その作品の独特のユーモアが受けたのか南畝はわずか18歳で気鋭の文人と目されるようになります。さらに、この本ではこんな文面があります。
貧すれば鈍する世をいかん
食うやくはずの吾が口過ぎ
君聞かずきゃ 地獄の沙汰も金次第
稼ぐにおいつく貧乏暇なし
この文面は杜甫の詩「貧交行」をパロディにした狂詩「貧鈍行」も掲載されました。これがベストセラーとなり、南畝は文芸の道へのめり込んでいくことになります
3.狂歌サロンを開く
1769年に南畝は狂歌師としての活動を本格化させました。その際に南畝は四方赤良の号を名乗るようになりました。詳細としてはまず南畝は橘洲のもとで同じ塾生仲間たちと開く狂歌会に参加するようになります。この歌会が各地に派生したことで寄り集まって狂歌を詠むサロンが誕生しました。これらのサロンを「連」と呼びます。「連」は各々で江戸狂歌の作者を記した名鑑本まで出版されるほど大きくなったそうです。
4.狂歌ブームの中心人物になる
1781年には黄表紙の批評など指導的な立場となっていきます。さらに、1783年、230人ほどの狂歌を集めた「万載狂歌集」の出版が南畝の人生を大きく飛躍させたそうです。この狂歌集には歌舞伎や遊郭の人々の狂歌も取り上げました。そのため、狂歌が江戸の大衆文化へと発展し天明狂歌の時代というの名の流行がおこりました。ちなみに、その狂歌集に南畝狂歌があります。こちらです!
世の中は 酒と女が 敵なり
どうか敵に めぐりあいたい
5.重三郎との出会い
南畝の狂歌会に「べらぼう」の主人公こと重三郎が興味を持ち出します。その影響で1781年に重三郎が営む耕書堂から南畝の黄表紙評判記「菊寿草」が刊行するなど黄表紙の評論家としても活躍しました。また、狂歌師50人の肖像に狂歌を添えた「吾妻曲狂歌文庫」も重三郎から出版します。
このように、重三郎は耕書堂作品の評判を高める人材として南畝を頼りにしていました。具体的には1781年に耕書堂から刊行された「朋誠堂喜三二」の黄表紙「見徳一炊夢」は南畝のお墨付きを得たことで大ヒットしたそうです。このような協力関係もあったことから重三郎はたびたび宴会で南畝をもてなし続けたそうです。
6.寛政の改革からは武士デビュー!
寛政の改革のせいで風紀の取り締まりが厳しくなり活動がしにくくなりました。
そこで、南畝は処罰を恐れ創作から手を引いてからは武士として生きる道を選択したのです。
その影響で南畝は仲間たちとも絶縁してしまいます。
その後、南畝は1792年に新たに設けられた学問吟味を受験し首席で合格しました。そして、1796年からは支配勘定へ抜擢されたり、大阪銅座やら長崎奉行所へと次々に幕府の要地へ赴任ししたりしたそうです。
7.狂歌の活動の再会と最期
規制が緩くなった頃に南畝は大阪赴任中から再び筆を執るようになりました。その際に「蜀山人」の名で狂歌、漢詩、随筆などの創作を再開したそうです。とは言っても、あくまで幕閣の業務が優先だったため執筆のペースは緩やかでした。ですが、蜀山人の名は子どもたちも知るほど有名になったそうです。それなのに悲劇が起きました。南畝は登城の際に転倒した傷の影響で1823に享年74歳で亡くなったのです。そんな辞世の句はこちらです!
今までは 他人が死ぬとは
思いしが 俺が死ぬとは こいつあたまらん
今までは死は他人事だったものの、人生の最期でようやく自分事として捉えられるようになったと言っています。
大田南畝の得意ジャンルや特徴
南畝の人生です。色んなジャンルに手をつけていましたね。では、彼が得意としているものは何か?補足として話しますね!
得意ジャンル
南畝がもっとも得意としていたのはやはり狂歌です。10代の頃から国学や漢学、歌学等を幅広く嗜んでいたことによる知識を活かして滑稽味を追加していました。具体化的には古典のもじりなどにより文学の敷居を下げることに成功しました。また、分析力・洞察力を活かし、批評の活動としていました。面白いことだけではなく人を見る目にも長けていたそうです。
特徴
南畝の代表的な狂歌の1つにこのようなものがあります。
世の中は さてもせわしき酒の燗
ちろりのはかま 着たり脱いだり
酒を温める容器「ちろり」とその熱くなった部分を覆う「はかま」を用いることで世間の忙しさは酒が煮え立つ時間と同じようなものと言っています。達観しつつもユニークな視点から作られた作品ですね。
大田南畝の逸話
ユニークな作品を出した南畝ですが実はとても真面目な性格だったそうです。
例えば、寛政の改革で出版統制が会った時このような落首が流行りました。
世の中に 蚊ほどうるさき ものはなし
ぶんぶというて 夜も寝られず
蚊がブンブン飛んでてうるさい。だから、夜も寝られないってことですね。それは文武振興策を推し進める寛政の改革はとても煩わしいとも言っています。それで、この落首が南畝の作であるという噂が広まりました。すると、南畝は釈明文を出し無実を主張しました。本人がやったからどうかに関しては掴めないてんです。ですが、ここまで否定するということは真面目だからできることですね。
まとめ
「べらぼう」の南畝はイメージ通りなのかなと思っています。滑稽なことを本当に言いそうな感じしかしないというのか。また、まだ先の話ですが武士としても姿も似合いそうですね。これは桐谷健太の人相のおかげでしょうかね?だからこそ、今後の南畝は見がいがあるなと思っています。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。
りかちゅう